早稲田ニセ学生新聞・第1号

1995年11月8日発行第1巻第1号通巻第1号第2刷早稲田学生新聞とは無縁毎月第2第4水曜日発行定期購読は受付ず代金無用本紙は何かの資金稼ぎには非ず唯の悪戯也

創刊の辞

 犯罪者は必ず証拠と動機を調べられる。これは近代社会の生んだ悪しき規則で、なぜなら人は証拠で決付けられれば動機が無い事を楯にして逃げを打つからである。オウム事件の首謀者と目される松本智津夫容疑者は、証拠では争へないから精神鑑定で争ふさうである。もし松本容疑者が精神異常と認定され無罪になつたら人はどう思ふだらう。いつもは動機動機と言ふ人が今度は動機の有り得無い気狂ひを殺したいと思ふのである。

 動機等より大事なのは証拠である。私の言ひたいのはそれだけである。私はこの小冊子でこれから色々言ふ積りだが、動機は詮索しないで欲しい、といふより動機は悪戯心だけである。

 外見だけで判断出来ぬ様では芸術家で無いとオスカー・ワイルドは言つた。ワイルドは目に見えぬ人の心を信用しなかつただけである。それから百年、現代人すら目に見えぬものを信じてゐる。動機といふものを信じてゐる。そのくせ自分の心は信じない。私は目に見えるものと自分の心だけで物事を判断していかうと思ふ。

正義の為なら手段を選べ

 自治会の人と話をする機会があつた。それで分かつた事がある。学生自治会は政治的集団では無い事である。読者は周知の事かと思ふが、私は知らなかつた。政治的なら自治会と奥島総長は手を結ぶ事が有り得る。さう私が言ふと自治会の人は怒り、そんな事をすれば自治会は学生を裏切る事になると言つた。いはば彼らは学生の「正義」実現の為に大学側を懲しめる「天誅研究会」だつたといふ訳だ。

 自治会のアイデンティティは、彼らが自分達の「正義」を貫く事のみにある。政治といふものが自分達の利益を守る事なら、彼らは政治集団失格である。私は今まで彼らを政治集団だと買ひ被つてゐた。それは誤りだつた。

 だが、それならそれで文句がある。もし自治会にとつて大事が正義なら、正義の為にも手段は選ぶべきなのである。商学部が自治会公認を取消した時、自治会は大谷学部長の「スキャンダル」を暴いた。私は自治会の人に聞いたのだが、もし商学部が未公認の自治会を公認しようといふ矢先にこの「スキャンダル」が発覚したとしてもやはり自治会はそれを追求しただらうといふ事である。

 自治会の言ひ方は、利益になるならないは別として、「正義」の為には大谷学部長の「スキャンダル」は追求するといふ事だつた。これは間違ひである。

 もし自治会が正義の集団ならば、スキャンダルを暴くなどといふ週刊誌並の事はせぬが良い。悪事を暴く事、他人の悪を告発する事は必ずしも自分の正義にはならない。週刊誌の暴くスキャンダルはその週刊誌を立派にしないし、大谷学部長の「スキャンダル」を告発する事は自治会を立派にしない。

 逆に、学生が自分の大学の恥を晒し、またそれを報じた週刊誌を自慢げに見せびらかすなど言語道断、恥知らずも良い所。何あれは自治会が自分達の名前を出してもらつて喜んでゐるに過ぎぬ。毎日や朝日に早稲田自治会を報道して貰つて嬉しいのに過ぎぬ。雑誌に投稿したら掲載されて嬉しいといふのと大差無い。

 言つておくが、学生側に正義があるといへるのは大学が授業をろくにしない時に文句を言つた時位である。ただ本来学生は教師に文句を言ふものでは無い。中世ヨーロッパの大学は学生が教師を雇つたから学生は何でも言へたが、今の大学はそれとは違ふ。第一私立大学が金をどう使はうと構はないし、「自分の金」が勝手に使はれるのが嫌なら払はぬがよろしい。払はず辞めるが良い。嫌な学校に何時迄もゐる事は無い。即刻辞めよ。

 嫌な所だが、他に行く所も無いからせめて良くしようとしてゐると彼らは私に言ふ。余計なお世話だ。私は民主主義に則つて言ふが、大多数の学生が大学の金の使ひ方に無関心ならばそれに従ふが良い。

 一般学生は大学の「悪行」を知らぬとは言はせない、自治会自ら宣伝して来たでは無いか。学生は皆「事態」を把握してゐる。それでゐて無関心なのだ。

 まあ、さういふ「事実」は自治会は認めまい。それを認めたら、自分達が学生を代表してゐない事も認めねばならぬからだ。自治会にとつて大事は利益でも正義でも無い、ただ自分達が学生を代表してゐるといふエリート意識即ち自負心と、マスコミが応援して呉れてゐるといふ虚栄心だけである。

 ここでこの論を終らせても良いが、私は別に大学側を弁護したい訳では無いから一応書いておく。大谷学部長は女の職員と付合つてゐたのが露見したのは悪い。教師が公費で女と付合つても私は知らぬ。大いに付合ふべし、ただ見つけられたのはまづかつた。教師といへども人だから絶対悪い事はしないとは言へないが、教師ならせめて学生に見つからぬ様「悪事」はして頂きたかつた。

 ちなみに噂では興信所の人間に大谷学部長を見張らせたさうだが、自治会は興信所に払ふ金なら持つてゐるのだらうか。下手な興信所ではばれる事があるから、大谷学部長が見張られてゐるのに気づかなかつたといふからには頼んだ興信所は一流なのだらう。一流の興信所に払ふ金はあつて学園祭に出す金が無いとはどういふ訳か。ひよつとすると自治会の大事とは畢竟金か。自治会費で自治会役員は何をしてゐるのか、まづは明らかにすべし。学内で拡声器でがなる女の役員は男の役員と自治会費で付合つてゐたりはしないだらうな。下司の勘繰はしたくは無いが、一応書いておく。

宗教法人は宗教にあらず

 国会で大騒ぎ、新聞で大騒ぎ。宗教法人法が大問題である。当初オウムの様な宗教法人を生まぬ為に宗教法人法を改正すると言ふ事だつたのに、いつの間にか創価学会が自分がオウムの様な顔して宗教法人法改正反対キャンペーンを行つてゐる。いやいや創価学会では無くて新進党が勝手にやつてゐる事か。政教分離がこの国の建前だつた。

 不思議な事に、国家は宗教に干渉してはならぬと言ふ癖に、宗教は国家の庇護を受けたがる。宗教法人になりたがる。法人とは税制上の優遇を受ける為にこの日本国では必要なものである。詰り法人になれば税金逃れを合法的に出来るといふ事だ。

 宗教が教へるべきは金等の世俗的なものを捨てる事である。俗に対して聖が宗教の領域ならば、宗教は俗的なるものから離れるべきである。国家が宗教に対して行ふべきは税金の優遇では無い。宗教に金を使ふ必要を無くする事である。だから極端な事を言へば国は宗教団体に金を使はずに済む手段を与へると共に、資金集めを禁ずるが良いのである。勿論これは理想で理想とは無理を意味する言葉だから言つても甲斐無い事である。

 ただ、宗教団体には自分達が俗的なるものとは違つたものであると言ふ意識は持つて貰ひたい。詰りは宗教法人法が改正になり、国家に監視される事になつたなら、潔く法人たる事を放棄する覚悟を持つて貰ひたいのである。

 オウムは現在の宗教法人法が生んだテロ集団ださうだが、宗教が宗教法人になる事は宗教の俗化であり非宗教化である。真に自分は宗教だと思ふ宗教法人は、いつそ今すぐにでも宗教法人の「汚名」を返上すべし。

オウム報道は鸚鵡返し、オウム信者は自分勝手

 オウム報道は面白い。テレビは皆オウムが悪いと偏向報道し、麻原彰晃こと松本智津夫容疑者を悪魔と呼んでゐる。(未だに「容疑者」と呼んでゐるのが可笑しい)皆が偏向すれば偏向では無いらしい。

 朝日は知らぬ。「ニュースステーション」はもうずつと見てゐない。久米宏の馬鹿を見るのは辛いからだ。お昼の愛川欽也のはたまに見る。TBSはたまに(元朝日・筑紫哲也のは見ないが、他のニュースを)見る。見るとオウムは右翼だとTBSは言ひたい様だ。麻原がオウムを作る前、戦前のある右翼に興味を持つてゐて某オカルト雑誌に文章を載せたとTBSは一度報じた事がある。それを見て以来私はTBSがオウムを右翼だと思はせたがつてゐると見てゐるが、それで結構TBSの報道は理解出来る。NHK日本テレビはをぢさんをばさん相手に麻原悪魔のキャンペーン。フジは冷静を失つてゐるがテレビ東京は相変はらず他人事の様な報道でゐる。

 私はオウム裁判で信者が麻原を非道く言つたといふのを聞いて、オウム信者がオウム真理教を信じてゐない事を知つた。彼らは麻原等端(はな)から信じてゐないのである。テレビは「信者のマインドコントロールが解けた」といふが嘘である。仏教では、人は仏門に入つてから仏の心を持つのでは無く発心してから仏門に入るのだといふ。オウムも同じで、端から宗教等信じない人が「入信」したのだ。

 まづオウム信者は実は日本国憲法信者である。強制捜査の時に彼ら曰はく「信教の自由があるんですよ」。彼らは自由教信者である。

 また彼らは拝金教徒でもある。資産隠しを見ずとも良い。教祖の悪口を言ふのは即ち蜥蜴の尻尾ならぬ教祖を切捨てて宗教法人の解散請求を免れようといふのである。オウム信者にとつて大事は教祖でも教義でも無く自分達である。オウムは人を殺しても自分の為になれば良いと言ふ連中の集団である。「自分教徒」である。

 『罪と罰』でラスコーリニコフは沢山の人を救ふ為には一人の老婆を殺して良いか悩んだ。オウム信者は自分を救ふ為に無差別に人を殺して良いか悩まない。悩んだらきつと今頃皆実行犯は自殺してゐる。しないのだから連中永久に欲の皮をつつ張らかしてゐる事だらう。自由自由と叫びつつ、他人の自由はお構ひ無しで、死ぬまで金儲けに勤しむだらう。そして我々もまた彼らに似てゐる。

日本の反日反核運動家

 フランスと支那の核実験に我が国は及び腰で反対の意思表示をした。反核運動家はこぞつてタヒチの実験場に向ひ、支那の実験場には行かなかつた。支那で女性会議があつて、支那の政府は支那国民に会議の内容を知らせまいとしたが、なら自分の国で核実験が行はれてゐると知る支那国民も少なからう。さりとて日本の熱心な反核運動家が支那で反核キャンペーンを行ひ、逮捕されたといふニュースも聞かない。どうせ誰も行かなかつたのだらうし、行つてもお忍びで行つたに相違無い。

 一方日本国内で反核運動家は元気だつた。高田馬場駅前でも早稲田の学生が反核署名活動をやつてゐたが他でも別の人がやつただらう。私は良く秋葉原に行くが、秋葉原にも有名な活動家集団がゐる。例のマハーポーシャのビラ配り部隊だ。なぜここでマハーポーシャが出て来るかといふと高田馬場駅前で行はれた反核署名の活動家の姿がそつくりだつたからである。

 マハーポーシャのビラ配りは頭にパソコンの被り物をしてゐたが、反核運動家は頭に茸雲を被つてゐた。マハーポーシャの人は激安と書かれた看板を前と後に下げてゐたが、早稲田の反核運動家はフランスと中国の核実験反対と書かれた看板を下げてゐた。

 人はオウム(マハーポーシャはオウム真理教の設立した会社)を馬鹿にするが、なぜ反核運動家を馬鹿にしないのか。一度ニュースで見たのだが、日本のデザイナーが反核をイメージしたデザイン画を集めて展示した事がある。私の目にその数百点のデザイン画が皆同じに見えたのはどういふ訳か。どれも髑髏が描かれてゐるか、茸雲が描かれてゐるかなのだ。デザイナーとは独創的なのが売だと思つてゐたが、私は彼らに対しまた買ひ被りをしてゐたのか。

 日本人は核を本当に嫌いなのか、疑はしいと私は思ふ。殆どの日本人は核兵器等どうでも良いと思つてゐよう。ただ自分の頭の上に落ちて来ねば良いとしか思つてゐまい。日本は世界で始めて原爆が落された国である。だがいはば日本人は核兵器の実際の効果を知つてゐるだけともいへる。核兵器の実際の効果を知つてゐるのは日本人だけであるが、核兵器が自国に使はれるかも知れないと恐れる事を知つてゐるかといふと日本人は誰も知らない。

 いつ何時頭の上に核爆弾が落ちては来まいか、さういふ恐怖を日本人はひしひしと味はつた事が無い。さう言ふと人は怒るが、日本人は一度(否二度)原爆を落されて、落されればかうも悲惨かと知つて、悲惨ならば誰も核等使ふまいと安心してゐる。周りの国が皆身をもつて核が使はれた恐怖を知らず、ただ落されたら怖いと思つてゐるだけだといふ事を日本人は知らない。彼らの「恐怖感」を理解しない。理解せずにただ実際に我々には核が使はれたのだと自慢みたいに日本人は言ひ、言つて自分は安心してゐる。

 フランスも支那も、核が落ちた恐怖は知らない、ただ核が落されるかも知れないといふ恐怖は知つてゐる。日本人は彼らを理解すべきである。ただ使はれた核兵器は恐ろしいのだぞと言つても、知らない者には通じない。もちろん核が落されるかも知れないといふ恐怖も、日本人には分らない。彼我に理解の差があるのだから、こちらの言分もあちらの言分も擦違ふ。

 日本人はただ経済的に制裁をすればフランスも支那もこちらの言ひ分を飲むと思つてゐる。しかし経済制裁だけでは世界戦争の発生を食止められず国際連盟は効力を失つた。フランスは核実験停止条約発効迄に実験は止めると言つてゐる。だが支那は条約が効力を持ち始めても実験を続けるかも知れない。フランスは自国内で実験出来無いのだから人目に付くタヒチで今後実験はすまい。中国は自国内で思ふ存分実験を出来る。

 日本はさうした場合、支那に対しどういふ態度を取るのであらうか。経済制裁を本気で行ふ覚悟があるか。或は支那は経済制裁を行ふ日本に核ミサイルを発射するやも知れぬ。さうしたら日本はどうするのか。きちんと目には目をと反撃するのだらうか。慈悲の心で黙つて死ぬのか。私は御免被る。

 反核運動家の人に言ひたい。フランスは地球の裏側の国で、日本に直接脅威にはならないが、支那は日本の隣国であり軍事大国として直接脅威なのだが、ある意味どうでも良いフランスの核実験には必死に反対し、日本にとつて深刻な問題となる支那の核実験には投遣りな反対しかしないのはどういふ了見か。ひよつとすると支那には良い顔をして、いざ支那が日本に核攻撃して来たら自分達だけ助からうとでも考へてゐるのか。それとも日本人の様な顔をして本当は支那人なのか。どうでも良いが半フランス人の大江健三郎がフランスに抗議してゐたが、大江はスウェーデンに帰化すべし。フランスは大江を受入れまい。さらにどうでも良いが、ノーベル賞は「反核賞」を部門に加へるが良いと思ふ。イェイツ、エリオットと大江が共に文学賞とは情けない。

 なほ本文にて支那といふのは「中国」といふ国が無いからである。中華人民共和国といふが、国際的にかの国はChinaであり支那である。「中国」と言ふのは支那を知らぬ者である。飽く迄「中国」に固執する輩は南支那海東支那海とは言はぬがよろしい。支那を中国と言換へたのは竹内好であるさうだ。

権力にしがみつく新聞

 再販制の見直しに必死になつて新聞が反対してゐる。我々の払つた新聞代を使ひ、紙面を使つて新聞は自己弁護のキャンペーンを行つてゐる。読者はそれを読まされ欺されてゐる。

 新聞の言ふ事は正確で、再販制が見直され強制的な定価販売が否定されたら、地方では新聞が高くなる、地方の新聞販売所を守れなくなる、地方の人が新聞を読めなくなる。それは正しいと思ふ。ただ、親切にも全国の人に新聞を読ませたいといふ新聞の主張には異議がある。新聞は善意の塊か。

 人間性悪説ならぬ新聞性悪説を採つたら見方は変はる。新聞が全国で売れるのは良くない事になる。新聞が売れないのは歓迎すべき事になる。多くの人は新聞で新聞側の主張を読まされて知つてゐるだらうから、私はここで反新聞の主張だけ書く。

 新聞が売れる事は新聞社の金銭的利益になる。が、そんな事が私は言ひたいのでは無い。私企業は金儲けをして悪く無い。ただ私は新聞の影響力を問題にしたい。新聞が私企業の癖して自ら「公器」といふのを問題にしたいのだ。

 朝日にしても読売にしても大新聞の主張がそのまま世論になる。私は世論とは新聞社の主張だと承知してゐる。新聞社の主張は一応輿論を反映したものとされる。嘘である。新聞記者が好勝手書く事が何で輿論か。世論と輿論は違ふ。

 実は、と言はなくても早稲田の学生は承知かと思ふが、新聞記者の書く事は必ず偏向してゐる。特に朝日毎日は偏つてゐる。サンケイ日経は偏りが少ないと今私がいへばあれは金が無いからだと言はれるが話は逆で、偏らないと儲からないのが日本国である。朝日毎日は反体制で売つてゐる、日本が悪いで売つてゐる。今では読者も皆感化され反日的で、南京大虐殺で三十万人殺されたと新聞が書けば信じる始末。人を三十万人殺すには兵隊が何人必要か。百人二百人では足らぬ。かなりの数が必要だ。殺した人が沢山ゐれば一人や二人今でも生きてゐて、喋れば有名になれるから喋りたがるだらうに、皆が皆黙つてゐる。「考へてみれば」可笑しいでは無いか。

 さて今行はれようとしてゐる再販制見直しとは、独占禁止法に於ける例外措置の見直しである。この独占禁止法とは昭和二十二年制定の法律で「私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律」の略称である。いはば新聞は合法的に「私的独占」をしてゐた訳である。問題は何を「独占」してきたかである。

 新聞の「独占」するは思想である。日本の新聞は日本の思想を「独占」してきた。自社の思想を読者に押付け、国に押付けた。新聞の主張は国を動かす。大東亜戦争は新聞が鼓舞した為軍部がその気になつて起した戦争だつた。多分こんな言ひ方をすると新聞は怒る、それはさうだらう、自分は正しいと思ふのが人情である。だが新聞の読者まで一緒になつて怒る、きつと怒る。他人事なのに真剣に怒る。軍隊は悪だと言ふ、自分で考へず新聞の言ふ通り言ふ。

 新聞読者は新聞に「洗脳」されてゐる。新聞に書いてある事を読者は常に信じ込む。常に新聞は正しいと読者は信じる。まるでオウム信者だ。人はオウムを笑ふが、自分だつてオウムと選ぶ所が無い。マインドコントロールをされた「新聞教」信者だ。私は読売新聞を購読してゐる。(好きで取つてゐる訳では無い。近所に読売の販売所があり、近所付合で取つてゐる)読売は子供の詩の欄で、子供がなぜ戦争に負けた日を終戦「記念日」と言ふかと書いたら、「反省するのにまたと無い機会だから」と答へた。新聞は子供のうちから読者を洗脳しようとしてゐる。

 私が言ひたいのは、新聞は権力者であり権力を失ひたく無いから再販維持を主張してゐると考へても筋が通るといふ事である。創価学会が宗教法人法改正に反対してゐるのが悪いなら、新聞が再販制見直しに反対してゐるのも悪いだらう。ただ私には新聞の方が質(たち)が悪いと思はれる。新聞は自分の利益と言はず読者の利益と恩着せがましく言ふからである。

次号予告――十一月二十二日頃発行予定、厳密には未定。内容未定。全て未定。未来の事は分らない。

(C)Copyright 1995,1996,1998-2000 by T.Nozaki(野嵜健秀/TNN) All rights reserved.

早稲田ニセ学生新聞」indexへ
別館」indexへ