早稲田ニセ学生新聞・第3号

1995年12月3日発行第1巻第3号通巻第3号早稲田学生新聞とは断固無縁毎週月曜日発行に本号より変更定期購読は受付ず代金無用本紙は何かの資金稼ぎには非ず唯の悪戯也発行部数僅か20部否それ以下本学最小且最も過激な新聞ただ影響力甚だ小さし

誰にだつてミスはある

 自衛隊のF-15戦闘機が僚機を誤つて撃墜して、人為ミスか機械の故障かで問題になつた。一般にはこの問題は関心を呼ばず、一方早稲田の自治会はこの問題をなぜか自衛隊否定論に結び付けてゐる。結論から書くと、人為ミスにせよ故障にせよ、この事故から自衛隊否定論は引出せない。こんな事故を起す様なら自衛隊は危険だともし自治会が言ひたいのなら、自治会は自衛隊に完全無欠である事を要求してゐる事になる。自衛隊を否定しつつ自衛隊に多くを期待してゐる事になる。

 自衛隊イコール軍国主義といふ論法は日本の左翼の紋切型で自治会も左翼だからやつぱりそんな詰らない事を言ふ。馬鹿らしい。自治会に限らずお人好しな理想主義者は、軍隊は悪く、戦争は悪いと信じてゐる。この時点で彼らは間違ひを犯してゐる。軍隊も戦争も良くも悪くも無い、平和が良くも悪くも無い様に。しかし彼らにとつては軍隊も戦争も悪であり、無くすべきものである。私はその意見に与しないが、仮にその意見を受入れるとしても、その次の意見は受入れられない。軍隊廃絶の為に一番身近な自国の軍備を無くすべしといふ点だ。

 「草の根運動」とかヴォランティアとかは身近な事から始めようといふ事だが、それは政治と無縁な倫理的なものだから身近から始めて良いので、軍備に関する事は政治的なものだから身近から初めてはいけない。政治では「最大多数の最大幸福」といふ。政治問題とは地域的な問題でなく国民的な問題である。政治で大事なのは一国の国民を生延びさせる事である、まづ生延びる事が大事である。生延びた上で社会福祉・厚生事業はある。軍備といつたり安全保障といふが、結局いかに国民を生延びさせるかが問題である。

 だから理想主義的左翼の連中は政治と倫理を取違へてゐる。戦争反対軍国主義反対であらゆる軍備の廃絶を主張する人は、それで自国が危険に晒される事を厭はない。厭はないばかりか喜んで自国を危険に晒したがる。そこでこちらが売国奴とか言はうものなら待つてゐたとばかりに連中言返す、軍国主義者め。こちらはかう尋ねる、強大な軍隊を持つアメリカは軍国主義か、中国は軍国主義か。すると連中はかう言返す、お前は馬鹿だ。馬鹿と言つて論拠を示さない。するといつの間にかこちらが馬鹿といふ事になる――連中の誤魔化しの手口はかういふものだ。

 連中にとつて大事なのは身近の「悪」であり、身近の軍国主義化である。実は連中にとつて日本が軍国主義的になるのは歓迎すべき事なのである。といふより実際に軍国主義化しさうも無い安全な風潮の下で、今にも軍国主義化するぞと安心して言へるのが連中嬉しくて仕方無いのである。私は軍隊擁護の立場だし、自衛隊を軍隊として遇すべきだと思つてゐるし、戦争だつて仕方無いと思つてゐるが、いざ軍国主義化しさうな兆しあらば、きつと反対するだらう。私は根からの天邪鬼だからである。だが理想主義者どもはさうでは無い。連中は今の時流に乗つて、言つて安全な事を言つてゐるだけである。いざ危ない情勢になつたら即転向するだらう。周りがみな戦争賛成と言へば一緒に言ふ、言ふに決つてゐる。当てにならぬ事新聞の如し。左翼と新聞はつながつてゐるからこんな事言ふ必要も無いが。(わざわざ自治会をここではジャーナリズムの左翼と区別する。その上で問ふ、自治会の学生は最後まで反対し続ける覚悟があるのか。)

 自衛隊機僚機撃墜事故について書かうとして大げさな話になつてしまつたが、最後にかう書くのも何だが、実は私はあの事件について何も知らないのである。だが恐らく自治会も良く知らないに決つてゐる。知らないから問題をすり替へて、軍国主義反対などと言つてゐるに過ぎない。そもそも出発点で間違つてゐる。私も同罪の様だが、しかし私の方がまだ事故について正しく認識をしてゐるからましである。自衛隊員といへども人の子、ミスはある。ミスなら以後注意すれば良い。そしていつも言つてゐる言葉でこの記事を終らせよう――いかなる問題もそこだけの問題にせよ。

「チャレンジ・エイズ」

 十二月一日、大隈講堂で小林よしのり・川田龍平のエイズ薬害訴訟についての対談を見に行つた。この対談自体は面白く無かつた。新しい事実が報告されたが、一般の私には直接関りは無いからそれ程興味も湧かない。(確か病院の名前が出たと思ふ。)小林の『ゴーマニズム宣言』に描かれた事が出てきたが、だからどうといふ事も無い。『ゴーマニズム宣言』は一度読んで内容は承知してゐるしこの対談自体その範囲から出るものでは無い。

 さてエイズ・HIV感染についてだがこれは安易に論じられない。人命に関つた事だから。だから本来私の様な半分ふざけた者が言ふべき事では無いのだが、HIV訴訟を支へる会の人も小林よしのりも「楽しみながら」と言つてゐる。さういふ意味では私はHIV訴訟・エイズ問題に関してあれこれ書くのに適任かも知れない。強調しておくがこの新聞記事はみな戯文である。戯文だが言つてゐる事は本気である。

 ジョージ・スタイナーに『悲劇の死』といふ著書があるが、今は悲劇的なものの少ない時代である。エイズはさうした現代に甦る悲劇である。悲劇は劇場の舞台の上で演じられたから観客にカタルシスを与へたが、舞台の外でエイズは現はれた。悲劇は舞台で英雄が運命に裏切られ、観客に代つて死ぬ。その死は演技であるがゆゑに観て快い。しかし現実にエイズは人を死なしめる。

 今私は血液製剤で感染したエイズ患者を死なしめた(死なせつつある)医師・役人について書かない。私が書けば偽善になる。私はエイズ患者の立派なのを書く。患者の書いた文章が、貰つたパンフレットに載つてゐた。そこに怒りは表はれてゐる。理由は何であれ怒りは美しく無い。そして美しい事は論ふ意味が無い時がある。私はその言葉にその患者の真剣さを見る。

 エイズは悲劇的だと書いた。今は非加熱の血液製剤で感染した患者の事を言つてゐるのだが、詰り信用してゐた医者に裏切られた事が悲劇的だといふのである。医者のする治療を患者は信じる他無いし、本来信じて良いものである筈である。信じて裏切られ死を迎へる事が悲劇である。

 悲劇の救ひは、死ぬ事によつて正にその人が目一杯の生を生抜く事にある。悲劇で人は進んで生き、信じた運命に裏切られる。エイズは逆で、外部から死が強いられる事で人はより良く生きる事を強いられる。会場で配られたパンフレットに載つた患者の言葉で、彼らは強いられたとはいへその生を精一杯生抜く事を宣言してゐる。

 死を目の前にして患者は立派に生きようとしてゐる。人は普通生き続ける限り死を意識しない。エイズで死を目の前に据ゑられた患者はその例外である。彼らはエイズを一種の運命と観じてゐる、観じてゐる事を演じ、乗越えんとしてゐる。押付けられた「悲劇」は悲劇で無い、彼らはそれを真の悲劇とする事にしかその生の意義を見出し得まい。

 最後に書いておくが、一般的に医師も役人も、善人か悪人かは断じ得ない。ただその中の悪い医師と悪い役人のした事がエイズの「悲劇」を生んだ。私は先天的に目に障害があつたが立派なお医者に手術して頂いて、今ほぼ不自由無く暮らしてゐる。だから医者といふ職業は立派なものだと私は信じる、誰もが信じるべきだし実際信ざるを得ない。だから医者は患者を決して裏切つてはならぬ。

 私の目を手術して呉れたお医者は、それが医師生活最後の手術だつた。もし今の世の医者が金儲け主義の悪い医者ばかりなら、私を手術して引退されたあのお医者を最後に立派な医者はこの世から払底したに違ひ無い。否、今も立派なお医者はゐる、どこかにきつとゐる。

理念でいぢめは無くならない

 またいぢめを苦にして中学生が自殺した。ここで攻撃的な文章を書いてゐる私も昔はいぢめられつ子だつたのでいはばいぢめの専門家としてこの「いぢめ問題」について書いてみようと思ふ。

 よくいぢめに気づかなかつたと言はれるが、当り前である。いぢめられつ子は自分がいぢめられてゐるのを隠す。自分を隠す子だからいぢめられる。一方いぢめつ子の方も相手がさういふ性格なのを見透かしてゐて、実際の所からかつてゐるだけの積りである。

 いぢめられつ子が深刻に考へるのに反比例していぢめつ子に深刻さは無い。極端ないぢめつ子は、自己主張しないいぢめられつ子に自己主張させようとお節介をしてゐると言ふし、実際本気でさう思つてゐる場合がある。もとは面白がつてからかつてゐただけなのに、いぢめ続けてゐるうち本気でお節介をしてゐる気になつてゐる。

 だからよく「いぢめ」と言ふが、いぢめの当事者にいぢめの観念は無い。人は簡単にいぢめいぢめと言ふが、さういふ意味で実はいぢめは無いとも言へる。いぢめに限らない、全て被害が出てはじめて問題が姿を現はす。こといぢめは新しい問題であり、新しいものは全て疑つて良い。いぢめといふが実は別のものがその背後に隠れてゐまいか。いぢめに限つて「そこだけの問題」に出来ない。なぜなら「そこ」に問題が無いからだ。

 少し視点を広げていぢめを含む教育一般について見てみよう。教育に関しては色々「問題」が指摘されてゐる。いはゆる「教育問題」に限らない、学校に関係ある問題を幾つか挙げてみよう――カリキュラムの問題、週休二日制、体罰、教科書問題、日教組、道徳教育、受験戦争、情操教育、等等。

 これらの問題をそれぞれ個別に見るのが今迄のやり方。しかしそれを連関させてみれば、互ひに矛盾し合つてゐる事がよくあるのに気付く。例へば教科書問題と情操教育を結付けて考へてみよう。感情を豊かにする教育が良いと言ふ一方で日本軍は侵略したか進出したかと言葉尻を捉へる様な事を言つてゐる。週休二日制と受験戦争は論ずる迄も無い、これに限つては良く論じられてゐる。だが、ここでこれらの問題といぢめを組合はせてみたらどうなるか。誰もが考へる割に誰も変だと言はない。

 教師の体罰は良くない、さう言つて教師から「権力」を奪ふのが今の流行である。そこで子供がつけあがつていぢめが流行る。日教組がストをする、子供が何で学ばないだらう。道徳教育と言ふが、そこで教へるのは毒にも薬にもならぬ事ばかり。子供が何で学ぶだらう。こと日教組は悪い。教師の組合といふが、教師が労働者だと誰が考へた。戦前教師が聖職だつたのは問題だつたが、戦後教師が労働者になつたのはもつと問題だ。

 教育とは非国民を育てる事といふ。これを額面通り受取るのが戦後である。この言葉は厄介で、この非国民とは左翼的なる事を意味しない。反日的になる事を意味しない。ただ政治を軽蔑せよといふのである。教育が本来教へるのは医学、哲学、文学、神学であつた。科学、政治、経済は教育の範疇で無かつた。

 こと経済学といふのは怪しい学問で、そもそも文学以上に法則などあてはまらない筈なのになぜか立派な客観科学の仲間の様な顔をしてゐる、今の社会の基盤となつてゐる。共産主義、社会主義が経済学を拠り所にしてゐるのは読者承知の事だらう。日本は理想的な共産主義国とはゴルバチョフの言葉ださうだ。ところでこの経済学にだけ依つてゐると、文学哲学神学にあつた本来の教育の精神が失はれる。

 文学哲学神学は人間学である。切ると血が出る学問である、倫理的である。今の社会が経済学ばかり重視し、挙句何でも理屈ばかりになり、教育そのものも支配した結果、教育に血が通はぬ様になつた。だから焦つて感情教育と言出した。フローベールの小説を日本で『感情教育』と訳したが、石堂淑朗氏にいはせればこれはやくざ教育なのださうだ。「感情」といふ言葉を使つてゐるが、そこに血は通つてゐない。血の通はぬ教育を日本人はずつと続けてきた。親は教師にかう命ずる、血の通はぬ教育をせよ、体罰は与へるな、砂を噛む様な文章で書かれた歴史を教へよ、宗教を教へるな、文学作品を切刻め。科学も数学ももつぱら計算ばかり。岡潔が昔かう言つた、「学問を好むといふ意味が、今の小中高等学校の先生方にわからないのですね。」

 今の「教育者」は学問の理想を忘れ、ただ理屈を捏ねてばかりゐる。学校で学問を教へず、ただ人と人を理屈で結ばうとする。子供に学問の面白さを教へず、子供にも理屈で接する。子供がどんな影響を受けるか。子供は学問に興味を持たず、かはりに人に理屈で接し理屈でやつつける面白さばかり学ぶ。言ひたい事は分かつたらう、いぢめつ子の論理は大人の真似である。いぢめつ子が反省もしないのは大人が反省しない真似である。

この世の掟についての考察

前号に引続き掲載・S君の論文

 今回は最近特に関心を集めている「いじめ」問題について考えてみる。いじめというものは、ごく最近開発された小中高等学校で流行する青少年の興味、関心を集める流行のゲームではない。三人集まれば派閥ができる人間の世界では、誰かが犠牲になることは不可避である。いじめはごく最近始まつたのではないのだ。ただ、昔のいじめはもつとスカッとさわやかな(嘗ての某コーラの宣伝文句)ものが多く、犠牲者があまり後まで引きずるようなものではなかつた。最近のいじめで自殺するものが非常に多いのはそれが陰湿化したためである。

 子供は社会を映す鏡であるなどとは言わないが、子供は大人社会からの影響を受けて成長することを避けられない。世の人々が陰湿になつたからいじめも陰湿になつたのである。では、大人が陰湿化したのは何が原因なのか。最近「善人」が多いからである。

 世の中に善人が増えて良かつた良かつた。しかし、この善人達は本当は善人を演じているに過ぎないので、どこかで演じている期間心の引き出しに閉じこめた悪の蓄積をどこかに吐き出さねばならない。どこに。世間では一般にこの悪の塊をストレスと称し、ゴルフやカラオケ、酒などを以てこれを発散する。そして再び善人の演技を開始し、同じことを一生繰り返す。似非善人の集合国家日本である。世界中似非善人である。このことは後でもう一度熱弁することにするから覚悟しろ。いや、御覚悟あそばせ。

 一方似非善人である人の親は自分の子供に善人であることを求める。一人つ子が増え、猫つかわいがりで育てられた子供は悲しいかな親に感謝してよく言うことを聞く。週に十日間塾に通い、成績も良く性格もよい。正確に言えば、性格はよく見えるのだ。性格がいいかどうかは最も長い時間を共有する親の影響により決定される。似非善人の元に暮らす者の性格がよくなる可能性は今この記事を読んでいる読者(君のことだ)が次期新進党党首候補である可能性に等しい。親にとつて非の打ち所のない愛する子供もまた実は善人を演じているのだから、どこかで悪人にならずにいられない。どこでか。親の目の行き届くところでは最愛の親が悲しむからできない。当然大人の目が絶対に届かない学校で悪人に変身するのである。敢えて周知の事実を述べるまでもないが、最近の教師はほとんどその仕事に誇りも持たず他にできる仕事もなく行くところもないからやつている莫迦だらけで、学校では教育など行われていない。格好の場だ。

 こうして子供は学校で、そこに存在する一番弱い者をいじめることにより善人の皮を一時的に脱いで心のバランスを保つているのである。つまりいじめを止めさせたければ、似非善人を演じさせることを諦めねばならぬ。自分のかわいい子供が、自分と同様心の底から腐敗し尽くした悪人であることを認めねばならぬ。善の塊である子供などいたらここに連れてこい。ご褒美を上げよう。子供の心の中に悪が存在することを認め、それを子供に教えなければいじめはなくせない。いじめの他に悪を捨て去る場を与えねばならない。

 さて、似非善人の存在するこの世界には当然「平和」など訪れない。自分が悪人であることがばれない限りいくらでも悪いことをするからである。悪人は、悪いことを悪いと知つているが、似非善人は悪の存在を知らないからである。悪人よりもやつかいな存在が似非善人なのである。私はいじめがなくなることを心から望むが実現しないことも知つている。以上の話に納得したら、あなたも似非善人である。覚悟!

 注意 本当の善人は存在するのです。私は善人ではありません。人ではないからです。悪人であるわけではありません、悪しからず。反感を持つことは許可されていますが、反論することは著者の威光により許可されておりません。ご了承の上お読みください。

 PLUS! ウィンドウズは初心者には導入できず、中級者以上には使いにくい仕様になつているので、これからのご購入を計画なさつている方は注意されたし。容易じやない。

★編集者より――原稿依頼しておいて言ふのも何だが、S君の論文は今回低調である。が、本人もそれは認めてゐる。反論無用とはいへ一応編集者の意見も書いておきたい。世の中似非善人が多いといふが、だからこの世が良くならぬのでは無い。偽善者は確かに多い。が、むしろ偽善は悪と教へたのが悪い。人は全くの悪人にも全くの善人にもならぬ。しよせん人が偽善者にしかなれぬのなら、偽善を貫く事によつてしか人には善を実現する道は無い。偽善もまた善に通ずる。世の中を良くするには偽善の大事を教へねばならぬ。

ビラの書き方

 早稲田大学当局が計画してゐる「新学生会館」建設と従来の「ラウンジ・部室でのサークル活動の使用中止」に、学生自治会はまた反対運動を行つてゐる。ビラが学内教室で大量にまかれてゐる。この計画は「徹底した学生無視」だと自治会のビラには書いてあつた。私は不思議に思ふ、学生を無視してゐるのならなぜ大学側はわざわざ「学生」の神経を逆なでする様な計画を立てるのだろう。大学のこの計画は学生を「無視」してゐない、ただ「学生自治」封じを狙つて良く自治会の「学生」の事を考へてゐる――いやいや今回は自治会の行動を直接批判するのは止める。今回は自治会のビラをテキストに、自治会の言葉の使ひ方を検討し、間接的に自治会に嫌みを言はう。

 自治会ビラより――「早大生の皆さん! これほど私たち学生を無視しコケにする態度があるでせうか。」「早大生の皆さん」といふ文句は自治会の紋切型で、すでに学生に対し訴求性を失つてゐる。その後の文句も昔の社会党の街頭での宣伝文句みたいで古臭い。続いて「(略)実はすでに九月に策定されてゐたそれを二カ月以上にもわたつてひた隠しにしてゐたとは。」この様な文句が散々繰り返された為、今の皮肉つぽい学生には逆に自治会が間抜けなだけという印象を持たれる可能性がある。自治会流の用語をビラから抜出してみよう――決して許されない不正・腐敗行為、自治介入・破壊の策動、団結してたたかつてきました、断じて認めることができない、意図がミエミエ、あらうことか、当局の厳しい管理・統制下におかれる、学生がかちとつてゐた諸権利・慣行、きはめて強権的、とんでもない自治破壊行為、云々。

 自治会用語には二つの系統がある。一つは「タテ」「ミエミエ」「ゴリ押し」等片仮名を使つたり「!」を濫用したり、「なりふりかまはず」推進する、「断じて」認めることができない、「悪名高き」、といつた不要な副詞(句)あるいは形容詞(句)を使つたりする、センセーショナルな用語法、学生の感情に訴へようといふ言葉遣ひである。この手の言葉を自治会は大学当局への面当てに使ふ。ただ弱点があつて、かういふ言葉は文章の品位を下げる。(少々古めかしい言葉も良く使ふのはなかなか感心であるが。)この様な言葉が濫用された文章は安つぽくなる。第二は純然たる「学生運動」用語で、社会主義・共産主義の用語に由来する言葉である。「団結」「連帯」「闘争」「体制」――これも弱点があつて、それは運動の中にゐる人には魅力的に感じられても、他人の立場から見ると馬鹿らしく感じられる事だ。

 自治会のビラの文章を私はいつも感心して見る。論理展開がしつかりしてゐてレポートとして見ると良く書けてゐる。ただ詰らない。読者に読ませる努力はあるが、今述べた二通りの方法だけである。要は悪口が下手なのである、平板でワンパターンなのである。悪口の要諦は、本当に誉められる所は誉めて挙句貶すべき所を貶す事だ。「公正な判断」といふものを狡く使ふ事だ。自治会の言ふ事が信用出来ない様に感じられるのは、何も自治会が不誠実に感じられるからだけでは無く、自治会が言ふのは常に悪口であると思はれるからでもある。狼少年はいつも狼が来るとばかり言つてゐて本当に狼が来た時誰にも信用されなかつた。同様、いつも悪口ばかり言つてゐると本当に言いたい悪口も悪口に受取られない。自治会の役員は皆頭の良い人ばかりだ、ただいつも同じ事ばかり言ふから馬鹿だと思はれる。

 最後に書いておくが、私はいつも自治会と大学当局両方を批判してゐるが、これは危険な事である。別に両方から反撃されるからといふ訳では無い。自治会だけ、あるいは大学だけを攻撃するのが互ひに似てゐる様に、両者を攻撃するのは両者にお愛想を言ふのと似てゐるからである。人の主張はその嫌いなものに似てゐる。私は自治会にも大学当局にも愛想を言ひたく無い。だから私の自治会批判と大学当局批判は厄介なのだ。そして前回既に書いた様に、大学当局を攻撃する自治会と、自治会を攻撃する大学当局はまた互ひに似てゐる。

★追記――自治会の人の「実情」をある人から聞いた。警察には目を付けられ、企業からは就職を断られるのださうだ。しかし別にそれが彼らに不都合では無いと思ふ。警察は彼らには敵だから目を付けられるのは本望だらう。警察に無視されたら自治会も終りである。一方企業に就職出来なくても、企業は金権主義の代名詞で彼らの敵なのだからそこに就職出来なくとも問題あるまい。企業の悪を論ひ、挙句就職してゐたらそれこそ間抜だ。

未練がましいぞ辰吉丈一郎

 網膜剥離の為日本でボクシングの出来なくなつた辰吉は、未練がましく特例で日本復帰を画策し、首尾良く何とかいふのと対戦してそれで勝つたら復帰させて貰へる事になつてなのに負けて、そのまま引退すれば潔かつたのに日本のボクシング界の規則の及ばないアメリカで復帰、そこで活躍してゐるから日本のボクシングの協会は急に辰吉が惜しくなつて規則改正で辰吉を日本に呼戻す事にした。馬鹿ぢや無いか。

 網膜剥離を起したボクサーに二度とリングに上がらせないのは、再び殴り合つてまた網膜を痛めて失明するのを防ぐためだとどこかで聞いた、あるいは読んだ。なのにその規則を改めるのは、あれは間違ひだつたからなのか。ならまづ協会はその医学的根拠を示せ。もし危険があるのなら、辰吉に限らない、今後規則改正で一度網膜剥離したボクサーが復帰して殴り合つて、挙句失明したら協会はどうするのだらう。医学が進歩したから大丈夫なのだらうか。噂では辰吉が復帰したらまた規則改正するらしい。すると辰吉は剥離した網膜がきちんとくつ付いて今では失明の心配は全く無いのだらうか。いづれにせよ辰吉だけが異例のケースなのだから、ますます規則改正の意味は無い。これは「特例」で処理すべき事だ。

 だが協会は今回「特例」を適用したく無いらしい。すでに辰吉には特例を適用したからだ。さうすると辰吉に以前特例を与へたのが馬鹿だつた事になる。協会は素直に、辰吉を日本で戦はせたいから規則は無視して復帰させるといへば良いのに。妥当な筈の規則を変へるのが一人気ボクサーの為といふのも協会の拝金主義で、結局金づるを手放したくなかつただけだ。なら特例とか規則改正とかかつこう付けなきや良い。

 しかし辰吉丈一郎、失明の危険よりボクシングが大事か。見上げた根性の様に見える。でもこちらもお金が欲しいだけなのぢや無いか。有名なボクサーなら引退後芸能界にすぐデビューできる筈だが、喧嘩ボクシングの辰吉ぢや芸能プロダクションも怖がつて寄付かなかつたか。私もここで今辰吉の悪口を書いてゐるが、本人にこれが読まれてゐるのだつたら怖くてこんな事書かなかつたかも知れない。しかしこの辰吉問題を見て分つたのは、ボクシングに規則などあつて無きが如しといふ事だ。さすが我らが喧嘩ボクシング!

一言ひとごと

★小林よしのりが「ゴーマニズム外伝」を「Views」に連載開始した。一応買つてみたが小林の漫画はともかくこの「Views」といふ雑誌の他の記事が読めたもので無い。まづ「超(スーパー)ドンキー法廷」を書いてゐる高橋春男が極付きの馬鹿だ。髪の汚い立花隆も「インターネットサーフィン」して喜んでゐるがこれは元々馬鹿。ただ「新聞/『正義』の仮面の下に『腐敗』あり」は良い企画。

★一方「新ゴーマニズム宣言」連載中の「SAPIO」は悪くない。この雑誌では、誰も誉めないだらうが「業田良家のTip Offシアター」といふ四駒漫画が実は面白い。

★ついでだが「SPA!」は詰らない雑誌だと思ふ。

★芥川龍之介全集が出始めたが、新字正かなを使用した妥当な編集である。今の人は正字(旧字)を読めないから新字(略字)で妥協するにしても正かなづかひで書かれた文章が読めない訳が無いからかなづかひくらゐは正しいものを使へば良い。だから岩波には是非正しいかなづかひの夏目漱石全集を出して貰ひたい。「原稿に忠実」といふのが売りの今出てゐる夏目全集は全面的に新かなに改められてゐてちつとも忠実で無いからお薦めしない。※この記事は誤り。夏目全集は新字正かな。岩波文庫版で新字新かなに改められてゐる。

★近所の文教堂書店から岩波文庫が消えた。なぜだらう。

★「超訳」のアカデミー出版から出てゐたシドニィ・シェルダンの本が、今後は徳間書店から出る。既に徳間からひとつ出てゐる。見てみると別に「超訳」でも無いのにアカデミー出版のシェルダン本と似た字面だ。「超訳」が読みやすいといふのは嘘で結局原文の中身が無いだけなのだらう。

★ワールドカップ・バレーボールの実況がうるさいといふ新聞の投書を見るにつけ思ふ、うるさけれあ見なければ良いのに。テレビにはスイッチがある。

★読売新聞に再販制度見直しに反対する二十人の「意見」が載つた。(十二月三日付)一ページ全部再販制度礼賛の文章ばかりで、全体主義国家の新聞みたいである。今後この二十人の名は我がブラックリストに記載されよう。

次号予告――記事執筆者兼編集者が多忙な為、次号が出るかは微妙な状況。なほ本紙が紙名を剽窃してゐる早稲田学生新聞が民青系だと自治会のビラで最近知つた。次から紙名を変へようか。

本文敬称略。

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